それは少し肌寒い夜の事。
青白いトラメルが水平線で輝き、このロード・ブリティッシュ城の尖塔を照らしていました。
もう何年も前の出来事になります。
わたしはこの愛する小さなネズミ穴から、すべてを見ていたのです。
その頃、我らがブリティッシュ王と、盟友ブラックソーン卿は、夕べには肩を並べチェスをするのが日課になっていました。
この王国の行く末についての議論を行うためです。
ブラックソーン卿は部屋へ到着する頃合、丁度、窓の下ではブリティッシュ王が駒を並べ終えたところです。
そのとき突然、よろい戸が音を立て開くと、ブリティッシュ王は片腕で目を庇いながら床へしゃがみ込んでしまいました。
突風が舞い込んできたのです。
凍てつくような風が流れ込み、それが部屋の空気を引き裂いたようでした。
いいえ、引き裂いてしまったのです。
裂け目にはまるで夜空の星々を思わせる光の大群、霧に包まれたかのようなあでやかな光の渦巻きが見えました。
流れ込む寒気は、部屋からすべての暖かさを奪い去り、暴風が本や調度品を撒き散らかし、家具といえばもんどりうって、その役目を放棄してしまう始末です。
その空気の傷跡、深い裂け目から、わたしがこれまで耳にしたことの無い声が、畏れるるべき声が発せられました。
これから記する事は、彼らの会話――わたしが最も注意深く記録したもの――です。
「汝、偉大なるブリティッシュ卿よ。私はタイムロード、別の次元に住まう者。そう、ちょうど君がソーサリアの外からやって来たのと同じだ。私は君に警告を携えてきたのだ。
「君は、彼の偉大なる勇者がソーサリアに降り立ち、悪の魔法使いモンデインを倒し、世界を救ったことを覚えているかな。不滅の宝珠を破壊し、囚われた世界を解き放ったのだ。
ブリティッシュ王はゆっくりと立ち上がると、その虚空の穴に向かい答えました。
「もちろんですとも。
「私は今でも願って止みません。彼の勇者が再びこの世界へ降り立ってくれることを。
声は応えます。
「彼は既にソーサリアへ戻ってきている。
「しかし、ここではない。あの宝珠が破壊されたとき、幾千もの破片が次元を超えて散乱した。その破片の一つ一つの中に宇宙が存在する。完全な宇宙のコピーだ。君もその破片の一つに暮らしている。残念ながら君は本当の君――ロード・ブリティッシュ――では無い、真なる宇宙、その世界の鏡映にすぎないのだ。
――ブリティッシュ王は動揺している様子です。
そして、わたしもどう考えれば良いのか分からなくなりました。
あの宝珠が砕け散った時、世界はその数だけ分裂してしまったそうです。その幾千もの世界の一つ一つにわたしがいる。
わたしは影に過ぎないですって、どこか彼方の遠い世界に存在している本物のわたしの影に――
声は続けました。
「私はこの散り散りになった世界を元の姿――単一の宇宙――に戻さねばならない。
「私は君に手伝ってもらいたくて現れたのだよ。また、この事には多大な犠牲が付きまとうことを承知してもらいたい。
我らが王の顔は、不安と好奇の表情で揺れているように見えます。
やがて起立すると、その裂け目を瞥することなく直視し、声を上げました。
「如何な犠牲であろうか。
「砕かれた宇宙の破片は非常に強力な力を秘めている。それ故、常に暗黒の力に晒されている。既に三つの世界が悪の力に屈してしまった。それはシャドウロードという蕃神の化身をとり、真なる宇宙へと矛先を向けている。
「私は幾度となく、彼の勇者をブリタニアへと招致した。彼ら自身の愚行、外界からの脅威から世界を守るためだ。
「今なお世界が分裂している限り、今なお世界は脆弱なままなのだ。
「破片を真なる宇宙と調和させるためには、我々は破片を一つに纏めてゆかなければならぬ。その時、二つの宇宙は統合し、一つとして存在することになるだろう。
「もし、もし我々が影に過ぎぬのであるなら……
ブリティッシュ王はそう訝しむ。
同時に、裂け目の煌きが弱々しくなってゆくのが見て取れました。
「そうだ、鏡映たちは真なる世界の住人と一つの存在に戻る。
「君も君のままではいられまい。より大きな君自身へと還ることだろう。消滅するわけではない。
「しかし、あの日よりもはや幾世、多くの命が育まれ、多くの世代を越えてしまった。彼らは、その魂に真なる似姿を持ち得ない。深遠の彼方へ消え行く運命なのだ。
ブリティッシュ王は打ちひしがれ、へたり込んでしまいました。
その犠牲――ブリタニアの民という、かけがえの無い犠牲――の大きさを訊いてしまったのですから。
「おお、我らが民よ。
そう大きく息を吐き出しました。
「より大きな幸福のためよ。
その言葉にブリティッシュ王は項垂れる。
――その時、わたしは気づきました。
赤く重いカーテンが揺れ、そこにブラックソーン卿がいたのです、なんと蒼白な面持ちでしょうか。
彼は何時からいたのかしら。
わたしには分かりません、しかし、彼はすべてを聴いてしまったのではないでしょうか――
「そして、私の為すべきことは。
ブリティッシュ王が震える声で問いました。
「人々の持つ、気高き魂を磨くのだ。そう、君が夕べに悩み、思い描いた八つの徳、今こそそれを実践するときよ。他の君も理解しているように、それは究極の人生である。
「君の民が徳と共に歩むなら、やがては真なるブリタニアと調和し、君の住む破片はまた真なる一つと再統合されるであろう。
その空気の傷跡、深い裂け目は癒えはじめました。
それを見た愛おしい暖かさは、また部屋へと、そっと舞い戻ってきたようです。
「私は今夜、この考え――私の思いつき――をブラックソーンと相談するつもりであったのだ。
ブリティッシュ王は深い息を吐きました。
「これは私の考えではなかったのか。私の人生も、私の考えも、私のすべてが鏡映に過ぎないというのか。
「断じて否。
そう声は応えました。
最初に比べずいぶん小さく遠い声になっています。
「そう、君たちは平行的であるのだ。それに君が私の考えを受け入れてくれる保障はどこにもない。
「今夜、私は幾千もの君に訪れた。そして同じくを懇願した。すべての君が私の考えを理解し、協力してくれはしまい。
その言葉を最後に、あの裂け目は閉じてしまいました。
嵐の晩に曝け出された部屋だけを後に残して。
「世界を破壊せよ、世界のために、か。
ブリティッシュ王は苦悶の声を漏らしました。
「たしかに私のいくらかは嫌になるであろうよ。
気を取り直したブラックソーン卿が、大仰に部屋へと入ってきました。
芝居がかった風に言います。
「おやおや、我が王よ。これは一体なんの騒ぎですかな。
しかし、彼の作り上げた狼狽では、旧友を騙すに十分ではなかったようです。
友は目を細め、問いつけました。
「どこまで聴いていたのだ。
「まったく何を言っているのですか。
ブラックソーン卿は目をそらすとチェスの駒を拾い集めました。
「私はチェスをしにきたのですよ。
彼らはテーブルを直すと、一緒に駒を並べだしました。
「ブラックソーンよ、なんと単純なゲームであろうか。
ブリティッシュ王は、チェスボードを指でたたきながら、意味深長に問いました。
「ただただ白と黒だけだ、あたかも人生までもが単純であるかのようよ。
ブラックソーン卿は深く腰掛けました。
「王よ、私は彼らがかように単純であるとは、決して思えませんな。
「もし他の誰かが、貴殿のような考えであるなら、それはとても悲しむべきことだ。
ブリティッシュ王はブラックソーン卿を睨めつけるようでした。
「しかし、キングを守るためには、ポーンを犠牲に差し出さねばならぬのだよ。
ブラックソーン卿も真っ直ぐにブリティッシュ王をとらえました。
「陛下、兵士とて一度家に帰れば、家族もいるし恋人もいる、その個々人の生活があるでしょう。
そういって、ポーンを前方のマスへ移動させます。
「――チェスを続けませんか。
その晩、激しい戦いが繰り広げられましたが、終に決着が着くことはありませんでした。
次の日、ブリティッシュ王は貴族たちを一堂に会し、新しい八徳思想を宣言しました。
国中に徳の神殿を建て、これを護らねばならないと宣言したのです。
ブラックソーン卿は声を上げ、これに猛反対します。
多くの人々はこれを訝しいことと思いました。
何故なら、ブラックソーン卿はとても高潔で実直と評判でもあり、これまでブリティッシュ王と意見を違えたことはなかったのですから。
彼は彼ら独自の神殿――混沌の神殿――の建立を同時に宣言します。
その日以来、ブリティッシュ城を後にし、政務のため北の湖畔にある塔へと移り住みました。
彼らはいまでも親友のままです。
しかし、彼らの間にある悲しみの溝が埋まることはもうありません。
それはまるで彼らが、望まぬ選択を、無理に強いられているかのようです。
そして夜、わたしが王の寝室に忍び込むとき、彼はテーブルからポーンを手に取り、すすり泣いていることがよくあります。
わたしはただのネズミです。
誰もわたしの声を聞くことはかないません。
これらの物語は誰も知らないままなのです。
わたしが、この世界の危機に際し、みんなの事を、わたしたちの国の事を本当に心配だからこそ、インクにぬれた小さな足で書いた、この大変な文字以外には。